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手のひらにいただく春の光かな

 数日前、NHKの四国版で俳句の番組があり、タイトルの句がふっと頭に浮かんで来た。松山市名誉市民・愛媛県名誉県民である柳原極堂の句である。

 4年間、学生時代を松山で過ごした。2年の時、「瓢百庵」という名のお寿司やさんでアルバイトをした。銀天街という名の商店街にあった。ご主人さんの名は、三井清さんで「川柳」を得意としていた。店の名のようにたくさんのひょうたんがつるしてあり、店の床に池があり鯉が泳いでいた。道後温泉のホテルで着物の展示会があり、昼食のちらし寿司の盛りつけをする数日のアルバイトであったが、以後、ずっとお付き合いさせていただいた。高知に帰省する時、「これから帰ります。」松山に帰ってきた時、「帰ってきました。」と店の入口の戸の間にちょこっと頭を入れてあいさつを繰り返していた。卒業してからもずっとお付き合いさせていただいた。三井さんがどのような方と交流しているか全く知らずに。
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愚陀佛庵
 


 卒業後、タイトルの句の年賀状をいただき初めて柳原極堂の名を知った。柳原極堂の熱烈なファンの三井さんは、副会長として「愚陀佛庵」(ぐだぶつあん)の再建に取り組んでいると手紙に書いてあった。手紙をいただいた当時は、変な名前でもあり何の建物だろうと意にも止めていなかった。何で尽力するのか理解出来なかった。

 最近、「愚陀佛庵」は、正岡子規と夏目漱石がいっしょに住んだ下宿だったと知った。「愚陀佛庵」(ぐだぶつあん)は、昭和20年松山空襲で消失し昭和57年松山城の下にある愛媛県立美術館分館の敷地内にある万翠荘内に無事再建された。実際に住んでいた場所は、松山市二番町にあったそうな。

 柳原極堂と正岡子規は同じ歳で東京へいっしょに遊学し、後に柳原極堂が松山で「ほととぎす」を創刊し、発行部数が足りず経営に窮した「ほととぎす」を正岡子規が引き継ぎ東京で「ホトトギス」として出版した。なぜ三井さんが再建に尽力されたのかがよくわかった。

 夏目漱石は、愚陀佛庵で過ごした十年後、『吾輩(わがはい)は猫である』で小説家としてデビューした。

 
 検索に出て来るかなと「瓢百庵」と検索してみると、どなたかのブログに三井さんの記事があった。私の知らない三井さんが書かれていた。そのまま掲載してみます。

「2004年01月  坂の上の雲ドラマ化に際して」
昨年2003年初頭には『坂の上の雲』のNHKドラマ化が決まり、松山市では記念館の建設を始めプロジェクトが動き出しました。
2004年に脚本、2005年に制作、2006年に放映の予定だそうです。(脚本家の都合により2007年以降放映に延期)
この作品は日露戦争を舞台にしており、あとがきには「この作品は、執筆時間が四年と三ヶ月かかった。書き終えた日の数日前に私は満四十九歳になった。 執筆期間以前の準備が五ヶ年ほどあったから、私の四十代はこの作品の世界を調べたり書いたりすることで消えてしまったといってよく、書きおえたときに、元来感傷を軽蔑する習慣を自分に課しているつもりでありながら、夜中の数時間ぼう然としてしまった。」とあります。
氏の最も愛する作品の一つであることは間違いなく、ご生前この作品の映像化は扱いを慎重にするように言われていたようです。
松山市長をはじめ松山市側の熱意がご遺族の周囲を動かし、実現にこぎつけたと聞いています。
昭和の文学の中でも屈指の作品といって良い「坂の上の雲」が原作の精神を失う事のない不朽のドラマに仕上がること期待しています。
ところで松山を舞台にした小説といえば漱石の「坊っちゃん」があまりにも有名ですが、その中で見えざる狂言回しをしているのが松山方言です。
いわゆる『なもし』言葉ですが、残念ながら現在は跡形もなく消えてしまいました。
有名な方言の中で最も早くなくなった言葉ではないかと思います。(日常に話されているのを一度も聞いた事がありません。)
そこで思い出したのですが、何十年も前NHKの『新日本紀行』という番組で、なもし言葉を守る会のことが紹介されたことがあります。
私の父も映っていると聞きました。その会は今はなくなった瓢百庵というお寿司屋さんで行われていたと思います。
(NHK関係の方が良く利用されていました。)
ここのご主人の三井さんは今思い出しても一流の文化人でした。
そこには野球拳を作った前田伍健さんをはじめ、村上壷天子さん、有馬白陽さん、富田狸通さんなど昭和後期の松山俳句界の通人達が集まっていました。
(というのも父がその末席に参加させて頂いていたので、その方々の色紙が結構私の家にもあります。)
昔は京都弁も裸足で逃げると言われていた、ゆったり、のんびりした「なもし言葉」ですが、
現在なもし言葉と言われて時々聞くものは本来の姿とは違うのではないでしょうか。
というのも、その三井さんのところでお寿司を食べていた時、ご主人がすばらしく優しい感じの「なもし」を最後に付けられたのを覚えているからです。
飄々とした中にも暖かいものを感じて今でも鮮明に覚えています。
ドラマの台詞が単になもしを最後に付けただけの松山方言にならないように願ってやみません。


とあった。三井さんの言葉の受け応えがやわらかい伊予弁だったので納得です。

タイトルの


手のひらにいただく春の光かな


この句は、よく手紙に書いてきてあった。

柳原極堂87歳の句である。何歳で作った句かずっと知らないでいたが、高齢でないと作れない味わい深い句だと思った。ひろげた老人の手に春の光がやさしくふりそそぐ姿が心にジワーッと伝わってくる句だ。春の光をいただく感謝の気持ちが伝わってくる句だ。勝手に届く光より、いただく光はきっと心まで届き、あったかく感じたことだろう。

また三井さんは


こころざし富貴にあらず老いの春


という柳原極堂の句をよく手紙に書いて来ていた。老人は、富んだものでも貴いものでもありません。ちょっとした心づかいが嬉しいものなのですと。気遣いとても大事なことだと思う。私は、逆に三井さんの大きな心と気遣いで長くお付き合いさせていただきましたが。


 瓢百庵と柳原極堂 柳原極堂と正岡子規 正岡子規と夏目漱石と愚陀佛庵 愚陀佛庵と瓢百庵 数十年の時を経てそれぞれの関係がやっとつながった。


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コメント

今、俳画展を見て帰ったところです。その、俳画の会は有馬白陽さんが始められたそうで、(有馬白陽さんは祖父の所によく出入りされていたので)懐かしくなってホームページを開けてみました。すると、祖父の名前があるのにびっくり。祖父の名は村上壺天子です。俳画展の帰りに、祖父が贔屓にして頂いていた「料亭文楽」で日替わり定食を食べ、壁に掛かっている祖父の絵を見てきました。ひょっとして、このホームページの主の所にも祖父の絵があるのでしょうか?

投稿: 越智 浩志 | 2008.03.11 午後 03時35分

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